前回、濃尾平野の「強さの根拠は地形ではなく人工物にある」と書きました。ではその人工物とは具体的に何なのか。名古屋の1時間104.5mmを受け止めたのは、地味だけれど巨大な設備群です。
治水設備は、水の流れる順番に沿って4段階に分けると理解しやすくなります。降った場所で溜める → 川へ流す・切り替える → 堤防で守る → 建物で受け止める。上流側で失敗すると下流側の設備に負荷が集中する、という関係です。
第1段階:降った場所で溜める
地下調節池・雨水貯留管
都市部で最も効く設備です。地下にトンネルや水槽を掘り、ピーク時の雨水を一時的に溜めて、雨が止んでからゆっくり排水します。
代表格は埼玉県春日部市の首都圏外郭放水路。調圧水槽は長さ177m・幅78m・高さ18mで、重さ約500トンの柱が59本立っています。排水ポンプは4台合わせて毎秒200m³という国内最大規模の能力を持ちます。1993年3月に着工し2006年6月完成、13年かかった事業です。



名古屋市も同じ方式を進めていて、地下約50mに内径5.75m・全長約5,000mの「名古屋中央雨水調整池」を建設しています。市全体の雨水貯留量は東海豪雨前の約14万m³から約87.5万m³へ、約6.3倍に増えました。前回の記事で「今回の被害が限定的だったことと投資の中身は整合する」と書いたのは、この数字を指しています。
弱点:溜めきったら終わりです。容量には上限があり、長時間降り続く雨には効きません。あくまで「短時間のピークをずらす」設備です。
遊水地
平時は公園やグラウンド、大雨時は水没させる土地です。地下調節池より圧倒的に安く、面積あたりの貯留量も大きい。渡良瀬遊水地のように河川と一体で計画されたものから、住宅地の中の「多目的遊水地」まで規模はさまざまです。

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東海豪雨後の新川激特事業でも、堤防強化や河床掘削と並んで遊水池整備が事業メニューに入っていました。
弱点:まとまった土地が要ります。都市化が進んだ地域では用地取得ができず、だから代わりに高価な地下調節池を掘ることになる、という関係です。
田んぼダム・雨水貯留浸透施設
水田の排水口に堰板や穴あき調整板を付けるだけで、降った雨がゆっくり流れ出るようになります。設備というより「器具」に近く、極めて安い。北陸地方整備局の試算では、ある流域の田んぼダムの効果が排水ポンプ車4台分に匹敵すると評価されています。
一級水系で策定されている全119の流域治水プロジェクトのうち、110プロジェクト(2026年3月末時点)で農業用ダムの事前放流や田んぼダムなど、農地・農業水利施設を活用した取り組みが進んでいます。濃尾平野は水田が広く残る地域なので、相性はいいはずです。
住宅レベルでは、雨水浸透桝や透水性舗装がこれに当たります。1戸あたりの効果は小さいものの、面的に広がれば流出抑制になります。
弱点:農家の協力が前提で、離農が進めば機能も消えます。持続性が制度の弱点です。
第2段階:川へ流す・切り替える
排水機場・雨水ポンプ場
ゼロメートル地帯では、これが生命線です。土地が海面より低いので、水は自然には流れません。ポンプで汲み上げて川や海に押し出すしかない。木曽川と庄内川に挟まれた日光川水系は、ほぼ全域がポンプによる強制排水に依存しています。



名古屋市の雨水ポンプ排水能力は、東海豪雨前の毎分約51,300m³から約64,700m³へ約1.3倍に増強されました。東海豪雨のとき新川流域で被害が拡大した原因のひとつが、まさに「ポンプの排水能力を上回る洪水の流出による内水氾濫」でした。
弱点:電気で動くので、停電すると止まります。そして低地では、ポンプが止まった瞬間に浸水継続時間が跳ね上がる。ゼロメートル地帯のハザードマップで浸水継続時間が長いのは、この構造のためです。非常用発電機の有無と燃料備蓄が実質的な防御力になります。
水門・防潮水門・洗堰
川の水を「通す/止める」を切り替える設備です。高潮のときは海側からの逆流を止め、洪水のときは支川への逆流を止めます。
伊勢湾台風後の名古屋港には防潮水門が整備されました。庄内川と新川の間にある新川洗堰は、庄内川の水位が上がったとき新川へ逃がす仕組みですが、東海豪雨ではこれが新川側の氾濫を悪化させた面があり、激特事業で約1mの嵩上げが行われています。この改良によって、東海豪雨と同規模の降雨での庄内川から新川への最大越流量は毎秒270m³から毎秒70m³へ下がりました。



弱点:操作が要ります。人が現地に行って開閉する樋門は、増水時に操作員が危険にさらされる問題が長く指摘されてきました。近年は遠隔化・自動化が進んでいます。
第3段階:堤防で守る
堤防強化(浸透対策・耐越水対策)
「堤防を高くする」だけが強化ではありません。むしろ重要なのは、水が浸み込んで内側から崩れるのを防ぐ浸透対策と、水が越えても一気に崩壊しない耐越流対策です。東海豪雨で新川の堤防が100mにわたって決壊し、氾濫面積19km²・浸水家屋約18,000戸という被害になったのは、破堤が一瞬で起きるからです。
新川の激特事業では、堤防を浸透対策・耐越流対策のために強化し、あわせて河床を掘削して破堤地点の水位を約100cm下げました。庄内川側も河道掘削で水位を約70cm低下させています。「堤防を高くする」より「水位を下げる」ほうが本質的、という考え方です。
輪中堤・二線堤
集落単位を堤防で囲う方式です。濃尾平野の輪中はまさにこれで、現在も岐阜市から伊勢湾まで大小45が連なっています。全域を守るのではなく「守る範囲を絞る」考え方で、コストが低いのが利点です。
伝統的な設備として水屋もあります。敷地の一角に石垣で高台を築き、その上に避難用の建物を置く。輪中特有の建築形式です。



水屋は「浸水することを前提に、生活の核だけを高く上げる」という設計思想です。現代のマンションで電気室を2階以上に置くのと発想は同じで、400年ほど先に実装されていた形になります。
弱点:輪中は洪水を防ぐ一方で、内側の排水を悪化させ、堤内地をさらに低湿地化させました。守った代償として、ポンプ依存を深めたわけです。
第4段階:建物とまちで受け止める
止水板・防水扉・逆流防止弁
建物の開口部を塞ぐ設備です。ビルの出入口に差し込む止水板、地下鉄出入口の防水扉、トイレの逆流を防ぐ逆流防止弁など。安価で、個人や事業者の判断で導入できるのが最大の利点です。



弱点:設置する人がいないと機能しません。夜間や不在時に間に合わない。だから近年は水位で自動的に立ち上がる起立式が増えています。
電気室・受変電設備の位置
設備というより設計判断ですが、実務上はこれが一番効きます。東海豪雨でも伊勢湾台風でも、居室が無事なのに設備の浸水で長期間住めなくなった事例が多数出ました。電気室が地下や1階にあるマンションは、浸水深50cmでもエレベーターと給水ポンプが止まり、生活が成立しなくなります。
物件を見るときは、ハザードマップの想定浸水深と、電気室・受変電設備の設置高さを並べて確認するのが実務的です。
排水ポンプ車
固定設備ではなく、被災後に現地へ持ち込む機材です。国交省の地方整備局やTEC-FORCEが保有し、浸水した市街地から水を汲み出します。ゼロメートル地帯のように自然排水できない場所では、これがないと水が引きません。


費用対効果で並べると
同じ「1m³の水を処理する」でも、コストは桁違いです。おおまかな順序はこうなります。
安い順に、田んぼダム・雨水浸透施設 → 遊水地 → 堤防強化・河道掘削 → 排水機場 → 地下調節池。
地下調節池が最後に来るのは、他の手段が使えない都市部でしか選ばれないからです。用地がない、田んぼもない、堤防はもう高くできない。そこまで追い込まれた場所で、地下50mを掘る。名古屋市が中央雨水調整池を掘っているのは、名古屋駅周辺という日本有数の資産集積地を守るためです。
逆に言えば、設備の豪華さは、その土地がどれだけ追い込まれているかの指標でもあるということです。前回の記事で「弱い地形に治水資本が積み上がっている平野」と書いた意味は、ここにあります。
見学できる施設
治水設備は普段は見えませんが、公開されているものもあります。
- 首都圏外郭放水路(埼玉県春日部市):調圧水槽の見学コースが7種類あり、第1立坑やポンプ室、インペラ部も見られます。ただし施設稼働時は中止になります
- 木曽三川公園センター(岐阜県海津市):輪中の水屋が復元展示され、展望タワーから三川分流と養老山地の傾動地形が一望できます
- 治水神社・千本松原(岐阜県海津市):宝暦治水の油島締切工事でできた堤防と松林
濃尾平野で書くなら、木曽三川公園センターは実際に行って撮影する価値があります。図3で模式図にした地形が、展望タワーからそのまま見えます。
主な出典:国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所「首都圏外郭放水路」/国土交通省中部地方整備局/愛知県「新川流域 総合治水対策」/名古屋市上下水道局/農林水産省「田んぼダムの手引き」「流域治水の取組」/国土交通省北陸地方整備局「田んぼダム効果量の試算について」



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